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道徳教育の必要性

道徳教育こそがいま最も求められる教育である

加藤恒 (2010年7月21日)

 

 

一 道徳教育のすすめ

 

 私は、日本の教育の現状について不満を言わずにはいられない。ここでは、道徳教育こそが今最も必要とされている教育であるという信念のもと、語っていくことにする。

 ルソーは「エミール」で、「教育は生命とともに始まるのだから、生まれたとき、子供はすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ。教師はただ、自然という主席の先生のもとで研究し、その先生の仕事が邪魔されないようにするだけだ。」と述べている。このルソーの意見に、私は賛成する。教師は、学生が「正しい道」から外れないように補助さえすればいいと、私は考える。では、ここでいう「正しい道」とは何なのだろうか。プラトンは「ポリテーイアー」で、教育とは「ひとりひとりの人間がもっているような(真理を知るための)機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを…あたかも目を暗闇から光明へ転向させる…ことがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術」に他ならないのである、という。つまり、「正しい道」とは、人間が潜在的に所有する好奇心を腐らせることのないように育て上げていく、あるべき方向ということができる。

子供が「正しい道」を行くために、教師は国語や数学などの従来重視されてきた科目を教える必要はなく、ただ道徳教育だけ行えばいいと私は考える。主要科目の時間を減らし、道徳の時間を増やすという生半可な改革では無意味である。道徳以外の科目を全廃するという革命が必要である。なぜならば、勉強は受動的に教えられ、言われた問題を解くだけでは、受験で使える程度の知識しか身に付かないのであり、能動的に学んで初めて真の学力が身に着くと考えるからである。受験に必要な知識だけを提供する予備校などもってのほかである。道徳教育により、学生に学びの楽しさを教えることで、子供は能動的に学習する。能動的に学べば、その分定着するのも早くなる。ここにおいてモンテニューは、子供に対して「勉強への欲求と愛情をそそることは何よりも大切です。そうでないと、書物を背負ったロバを作ってしまうばかりです。人は彼を鞭で打って、ポケットを学問でいっぱいにしてやりますが、学問というものは、それを本当に役立てるためには、自分のところに宿すだけではいけない、それと身ひとつにならなければならないものなのです」と述べている。

 学校で主要科目を教えず、テストや補修が無ければ、勉強ができる子はいいかもしれないが、大量の落ちこぼれが生まれるという人もいると思う。もちろん、教師は落ちこぼれが出ないように徹底的に道徳教育を行う。具体的には、カラオケやゲームをしたり、ドラマやお笑い番組を見てばかりいては、一時的に快楽を体験できるかもしれない。しかし、それは表面だけの快楽であって、学問を追求することで得られる(らしい)突き抜ける感じの快楽の方が上質の快楽であり、持続的な快楽であるということを教える。また、カラオケやドラマにふけることは、人生の主役を歌手やタレントに譲っていることになる、ということを教える。歌手の真似をし、ドラマの世界に生きることには主体性が欠けているため、そこには充実感が無い。

 

 

二 国外の教育水準と日本の現状

 

 もっとも、以下のようなテストなら教育の一環として意味があるのかもしれない。

 

問一 学生が部屋に入ると、河上肇と三島由紀夫がそれぞれ自らの主張を書いた英語の小論文を渡されます。それを読んだ後で、教師が口頭で質問します。その内容は、二人の日本の思想史の中での意味を問い、論文の内容を要約し、「あなたは二人の主張をどのように考えますか」と聞かれます(ラムジー・ホール・スクール<コネチカット州>日本の中学校に当たるジュニア・ボーディングスクール)。

 

問二 太平洋戦争において、あなたが日本軍の指揮官であり、アメリカの敗戦が濃厚になったと仮定します。アメリカの国民に向けて首都のワシントン上空から撒く、降伏を呼び掛けるビラを起案してください(同)。

 

問三 あなたは「日本の戦国時代の封建領主の跡継ぎ息子で元服を迎えた十五歳の少年である」と、仮定します。そして初陣を迎え、戦場に赴くことになりました。その前に、父に宛てて手紙を書いてください(同)。

 

問四 アマゾンの密林で新種の生物を発見したと仮定します。その生物の姿を描写してください。姿、形、繁殖している姿、場所などの生態を説明してください。朝十時に試験問題が渡され、夕方四時の提出まで、どこで、だれと相談しても、何を調べても構いません(ウィリストン・ノーザンプトン・スクール<マサチューセッツ州>

 

これらの問いは、丸暗記した知識では太刀打ちできない。知識を組み立てる理解力、構想力、そして表現して発表する伝達力が評価されるのである。問一で登場する河合肇(一八七九〜一九四六年)は、マルクス主義の経済学者で、非合法だった時代に共産党に入って獄中生活を送った。一方で、三島由紀夫(一九二五〜一九七〇年)は国家主義思想に晩年傾倒した作家である。日本の学校では、二人の思想は極端であるため、今ではほとんど教えられていない。解答では、左右両派の思想家を紹介しながら、自説を述べなければならない。また、日本の思想史や近現代史の知識と、それを論評する力が無ければ、適切に答えられない。問二では、第二次世界大戦の背景と、日米関係の歴史を深く知っていなければならない。問三では、日本の戦国時代の歴史と、当時の武士道などの倫理観や家族観などの文化的な背景も知らなければならない。問四では、ダーウィンの唱えた生物の進化の理論、アマゾンの気候、植生と地理的な状況などの知識を前提に、自説を構築する思考力が問われます。

これらの問いは、ボーディングスクールと呼ばれる、アメリカの一三歳から一八歳の子供が通う私立の全寮制学校で実際に出題されたものである。日本の今の教育制度では、このような良質の問題を出すことは不可能である。何よりもまず、教師の質を高めなければならない。フィンランドのように教師の社会的地位を上げたり、最低でも修士号を取得した者に教員採用試験の受験資格を与えるなどの改革が必要である。そして、大学受験をなくすことである。大学受験の廃止は、必然的に小学受験や中学受験、高校受験の廃止を意味する。なぜならば、より良い大学に行くために、より良い小学校や中学校、高校を目指すのがそれぞれの段階の受験だからである。つまり、受験業界の崩壊である。では、進学するにはどうすればいいのか。面接で十分である。しかし、ただの面接ではいけない。ケンブリッジ大学の医学部の面接は、数人の教授が受験生一人に質問をし、受験生が質問に答えるという形式で行われる。試験時間は二時間で、アヒルは凍っている湖を泳いでも何故アヒルの足は凍らないのか、という質問をされる。そして受験生が答えると、教授がそれは違うとか、こういう場合はどうなのかということを質問し、受験生が答えにたどり着くまでの思考回路をみるのだという。このような水準の面接が求められる。

 次に、補修をしなくては落ちこぼれが増加するという問題を考えてみる。結論を先に言うと、落ちこぼれは出ても仕方がないのである。そんな無責任な主張があるかと反論されるかもしれない。しかし、私は格差に賛成である。なぜならば、一生懸命努力した人が評価されるのは当然のことだと考えるからである。もっとも、コネや要領の良さで勝ち組にのし上がる人もいるだろう。けれども、私がここで問題としているのは、努力することをやめたニートやフリーターと、一流企業で働く者との関係のことを言っているのである。コネや要領の良さで勝ち組となった人は努力をしていない、という批判はここでは意味を成さない。彼または彼女らは、自分の夢を追いかけないニートやフリーターに比べれば、自分の夢に近づこうと一応は努力しているのである。

機会の平等と結果の平等という二分法が存在する。結果の平等が実現不可能なことは歴史が証明している。どれだけ勉強しても同じ学校、同じ企業に入ることができ、同じ給料をもらうのなら、そもそも勉強をしなくなるだろう。では、機会の平等は実現可能かと言うと、これもそう簡単ではない。スタートラインを同じにすればいいという人がいるかもしれないが、各人の夢=ゴールラインが一様でないのに、何をスタートラインと定義すればいいのだろうか。才能の有無を考慮しなければならないのなら、親の遺伝子の問題という壁に突き当たる。また、自分一人で問題を発見し、調べ、解決する力がなければ、たとえ学校を卒業できたとしても社会で通用しないだろう。勉強が分からない人は、勉強ができる人に聞けばいい。そうすることで、「人間関係力」もつくだろう。

 最後に、受験を乗り切るためだけの知識を提供するだけなら、学校の授業はいらない。予備校のトップ講師が、オンラインで全国の学校に講義を配信すればいいのである。学校の真の目的は、テストに出る答えを教えることではない。子供の人格を育て上げていくことである。ルソーは「エミール」で、「絶えず何か教えようとする権威に全面的に従っているあなたの生徒は、何か言われなければ何もしない。」と警告し、「彼の方から質問してきたら、好奇心を十分に満たしてやるのではなく、それを育むのに必要な程度の返事をしたらいい。」と述べている。またモンテニューは、「彼の家庭教師が記憶すべきことは、その職務は知ることのできるいっさいのことを子供に教えることでなく、知識に対する愛と尊厳の念を子供の心に起こし、子供にその気があれば、自分自身で知り、向上する正しい軌道に乗せることです」と述べている。

 

 

三 まとめ

 

 最後に、道徳教育こそがいま最も必要とされる教育であり、それを行わない限り、日本は世界から遅れをとるだろう。

 

 

<参考文献>

「道徳教育」財団法人放送大学教育振興会 1999年 木原孝博・大西文行共著

「アメリカ流 真のエリートをはぐくむ教育力」PHP 2009年 石角完爾著